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三年基础,两年思考,一月结晶,算不得大千世界小小文章

2005-1-21 12:57:14 | redfish




日本語特有多重授受表現に対する考察会得

要旨
アメリカ女流社会学者ルース・ベネディクトという人がアメリカが日本と戦争するためには日本人の性格を理解することが必要だというので日本人の二面(美しい面と恐ろしい面)を描く「菊と刀」という本を書いた。その中からこう言っている:「一人の日本人を苦しめることはなんでもないことで、日本人にものを与えればよい。いつまでも、そのことを頭に持って、悩み苦しむであろう。」
実際は夏目漱石の小説「坊ちゃん」の中でこういう現象も起こっている:「ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、俺の顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。然し一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。」あくる日主人公が学校へ行ってその一銭五厘を返すのにかなり苦労した。
このような典型的な日本人を見ると、一般的に日本人は非常に「恩義・利益」にこだわると結論してもよいだろう。
一つの国の言語はその国の国民性格の一面を反映しているといってもいいと思う。
日本語にはこういう日本人の性格をよく反映し、日本人の性格に似ている授受表現はほかの国の言語と比べれば形式上の複雑さだけでなく、人間関係も非常に細かくなっているのである。
私は大学二年生のとき、『日本語』という高学年教科書に載っている金田一春彦が書いた『日本語の特質』から一部抜粋された文章の中に、「写真をとってもらってやってくださいませんか?」という文を見たが、当時ざっと目を通して、そのあとまったく考えなかった。ある日、別の問題を考えているうちにその文がふと頭の中に出てきたときになって初めてその文が気になってきた。その文を考えれば考えるほど複雑になってきたので一ヶ月間も考えてやっといくつかのことを悟った。そのあとも日本人にも聞き、ほかの学生ともいろいろ検討した結果、私の考えは正しいらしいが、まだ実証していない。だが、実証するには、日本語の「授受表現」を全面的に理解しなければならない。
本稿ではその文に限らず、日本語の多重授受表現に関して、授受表現を全面的に展開してみたい。
キーワード:授受 恩義 利益 補助動詞 与える 受け取る 方向 接続助詞

一、はじめに
1、授受表現文の構成要素
1-1、授受表現の骨格
授受とは文字通りに「与えることと受け取ること」という意を表す略称である。その「与える」と「受け取る」という動作はあるものがなければ成立できない。それは目に見える実際的に存在している「もの」と、目に見えない抽象的なもの「恩義」あるいは「利益」である。「もの」と「恩義・利益」は授受表現の骨格といってもいい。
1-2、授受表現の血肉
「もの」と「恩義・利益」を送る動作の方向を表す動詞は授受表現の血肉となっている。本稿ではこの血肉を「授受動詞」という。
よく使われる授受動詞は「やる、あげる、差し上げる、くれる、くださる、もらう、いただく」の七つの動詞である。基本的には「あげる、くれる、もらう」の三つであるが、ほかの三つ「さしあげる、くださる、いただく」はその三つの動詞の尊敬形である。最後の「やる」は特別で一応「あげる」の見下げる形と言ってもいい。
1-3、授受表現の毛皮
授受表現の毛皮となっているのは「恩義・利益」の「与える」と「受け取る」という動作を表す動詞といってもいいだろう。「書く、言う、行く、見る、取る、運ぶ、生きる」等等。

二、本動詞と補助動詞
 1、補助動詞とは
広辞苑によると、補助動詞とは動詞で本来の意味と独立性を失って付属的に用いられるもの。「いる」「ある」「おく」「いく」「くる」など、日本語にはいくつかの補助動詞として使われてる動詞がある。授受動詞も多数の場合には補助動詞として使われている。
2、授受本動詞と授受補助動詞の区別
本動詞として使われている授受表現は授受表現の中に一番簡単で具体的である。たとえば:
①「本をあげる」
②「本をもらう」
③「本をくれる」
この三つの文の中の授受動詞は本動詞として使われている。「本」も目に見える実際的に存在している「もの」である。そして、授受動詞も一つしか入っていない。

上記のような文以外に授受動詞はほとんど補助動詞使われている。
例文:
④「字を書いてあげる」
⑤「本を買ってくれる」
⑥「服を洗ってもらう」
この三つの文の中の授受動詞はすでに本来の意味が失われて補助動詞として使われている。そして、補助動詞として使われている授受動詞は「書く、買う、洗う」という動作を通して「恩義・利益」の方向を表す機能を果たしている。こういう授受動詞が一つしか入っていない表現は一番普遍的存在である。

以上の二組の例文をみると、授受本動詞と授受補助動詞の区別が明らかになってくる。
本動詞として使われている授受動詞の動作対象は目に見える実際的に存在している「もの」であって直接に格助詞「を」と続く。
授受動詞は補助動詞として使われると、補助動詞の定義のように、主要な位置が失われて付属的に用いられているようになった。こういう場合、授受動詞は格助詞「を」と続くのではなく、必ず接続助詞「て」と続くのである。

三、方向という概念の導入
 授受動詞が補助動詞として使われる文にはいろいろなタイプがある。普通の動詞に限らず、使役動詞とともに現れる場合もある。また、一つの文には一つの授受動詞に限らず、二つか三つの授受動詞が同時に入っている場合もある。その場合、文が多重授受関係になって意外と複雑になるので分析するためには方向という概念を導入しなければならない。
1、「恩義・利益」の移動
前に言ったように、授受表現の核心は「もの」と「恩義・利益」である。目に見えない抽象的な「恩義・利益」は抽象的な授受表現の骨格なので、これがないと授受表現は成り立たない。
 「恩義・利益」の動きによってさまざまな授受表現が出てくるという点から見れば「恩義・利益」の動きは授受表現の中にもっとも重要な役割をされている。もっと簡単に言えば、授受表現の本質は「恩義・利益」の移動と定義し得る。
2、授受補助動詞実際の機能
 文④⑤⑥の中の「書く」「買う」「洗う」は普通の動詞で、ただその動詞自身が表している動作を表すだけである。これらの動詞には方向という付属的な意味が含まれていない。つまり方向性がない動詞である。これを理解するには、数学名詞を比喩として使ってもいいと思う。
広辞苑によると、数学にはただの数または数と同等な性質を持つ量はスカラー(scalar)といい、大きさと向きを同時に有する量はベクトル(vector)という。
比喩としたら「書く」「買う」「洗う」はスカラーと同じようにただ単純に動作を表すだけで方向性を持っていない。
しかし、授受補助動詞は本来の意味が失われたので比喩としてもベクトルとは違うものだと思う。
文④⑤⑥のいずれにも「普通の動詞+授受補助動詞」という形で同時に二つの動詞が入っている。この「普通の動詞+授受補助動詞」というものは比喩から見ればベクトルに似ているといえる。
ここまでいったら、授受補助動詞本来の機能は明らかになってくる:
「恩義・利益」という抽象的なものの移動する方向を表す。
つまり、普通の動詞がベクトルみたいなものになるために授受動詞は本来の意味を失って方向だけを表す付属的な意味を残している。

四、 授受補助動詞が表す方向
「恩義・利益」の移動方向
物理には「力」というものはベクトルで方向性を持っている静止している物体に運動を起こし、また、動いている物体の速度を変えようとする作用という。静止している物体に運動を起こす「力」というものを発動するものとその「力」を受けるもの(具体的なもの抽象的なものにかかわらず)が客観的に存在しているように、「恩義・利益」という抽象的なものを移動する動作を発する行為のものとその行為から出てきた「恩義・利益」を受け取るものも必ず客観的に存在している。
文④⑤⑥を文面の意味から見れば、それぞれ、話し手が聞き手(あるいは三人称)のために字を書く、聞き手(あるいは三人称)が話し手のために本を買う、聞き手(あるいは三人称)が話し手のために話し手の服を洗う、ということである。つまり、文④⑤⑥の「恩義・利益」の移動する方向はそれぞれ、「話し手→聞き手」、「聞き手(あるいは三人称)→話し手」、「聞き手(あるいは三人称)→話し手」である。⑤と⑥の方向同じであるが、ニュアンスが違う。
ここで最後に少し注意すべきことは、文④だけは「恩義・利益」の移動起点と移動到着点両方とも決まってるが、文⑤⑥は「恩義・利益」の移動起点は決まっていない。


五、 多重授受表現
 本動詞として使われてる文①②③であれ、補助動詞として使われてる文④⑤⑥であれ、、あくまで一重の授受関係しか表さない。授受動詞もひとつしか入っていない、もしくは「恩義・利益」は単一で移動する方向が一方的だといえる。しかし、実際は日本語の授受表現は必ずしも一重の授受関係だけには限らない。「恩義・利益」も必ずしも単一ではない。「恩義・利益」の移動する方向も一方的ではない。これから、使役助動詞混じりの授受表現、授受動詞が二つ入っている授受表現と冒頭に書いたその三つの授受動詞が入っている典型的な文について自分の考えを詳しく述べさせていただこう。

(一)、使役助動詞混じりの授受表現
まず次の文をみてみよう:
⑦「働かせてあげない」
⑧「働かせてくれない」
⑨「働かせてもらえない」
日本語の特徴の一つは「人称代名詞がよく省略されること」、つまり、動作の主体と客体をよく文面から省略される。文⑦⑧⑨は普通の日本人が見ればすぐわかるが、日本語が母語でない学習者にとっては、普通にはそう簡単に理解できないはずである。使役助動詞「せる」は普通の動詞と同じように他人に動作を行わせたり事態を引き起こせたりする意を表すだけでスカラーのようなもので方向性を持っていない。それに人称代名詞がないため、いったいだれがだれに「使役」という「恩義・利益」を与えるか普通の日本語学習者にはすぐにわからないだろう。
前に言った文④⑤⑥は「普通の動詞+授受補助動詞」の形であるように、文⑦⑧⑨も順番から見ればこういう形になっている:「普通の動詞+使役助動詞+授受補助動詞」。「普通の動詞+使役助動詞」という部分は助動詞が動詞に「使役」の意を付け加えたという文法現象が起こっている。
ここで注意しなければならないのは、この「普通の動詞+使役助動詞+授受補助動詞」という形の中に、授受補助動詞は普通の動詞に続いているのではなく、使役助動詞に続いているので、こういう場合、授受補助動詞は使役助動詞がベクトルみたいなものになるために本来の意味を失って方向だけを表す付属的な意味を残している。
こう解釈すれば、文⑦⑧⑨が表す本当の「恩義・利益」が明らかになってきた:「使役」の意である。
すると、人称代名詞が省略されていても「使役」の与える者も「使役」の受け取る者も明らかになった:前に述べたように、基本的には、「あげる」「くれる」「もらう」が表す方向はそれぞれ「話し手→聞き手(あるいは三人称)」「聞き手(あるいは三人称)→話し手」「聞き手(あるいは三人称)→話し手」なので、文⑦⑧⑨の中の「使役」という「恩義・利益」の移動する方向はそれぞれ「話し手→聞き手(あるいは三人称)」「聞き手(あるいは三人称)→話し手」「聞き手(あるいは三人称)→話し手」である。こう分析すると、使役対象もわかった:文⑦⑧⑨の使役対象はそれぞれ聞き手(あるいは三人称)、話し手、話し手である。
以上述べたことから見れば、文①②③、文④⑤⑥と文⑦⑧⑨が表している「恩義・利益」はそれぞれ具体的なもの、抽象的な動作、動作に付属的に付け加える使役の意で、まったく違うものである。「恩義・利益」の形も多様化している。


(二)、多重授受表現
1、空間座標の比喩
 周知のように、空間座標すなわち三次元座標は抽象したものの空間幾何物体の数学的な性質を研究するために導入された原点ある方向軸である。平面座標軸は横断軸と縦断軸と分けられている、空間座標軸はx軸とy軸とz軸と分けられていると同じように、複雑な多重授受表現にも各種の関係を表す「軸」といえる比喩的なものがある。
 文①②③④⑤⑥⑦⑧⑨の中には授受動詞は「くれる」「あげる」「もらう」の三つしか出ていない。基本的には授受動詞は七つあると前に述べたが、ここまで残った四つの授受動詞についてはまだ余白である。
 多重授受表現といえば、ただ二つあるいは二つ以上の授受動詞が入っているという文の形が多重になることだけでなく、入っている授受動詞によって人間関係も多重になるのである。つまり、多重授受表現になると、文が表すすべての関係は単に一次元的どころか、二次元的ですらなく、三次元的な重なりにもなるというのである。さらにいうと、多重授受表現の場合、「恩義・利益」の移動方向はもはや一次元的ではなくなる。
 これから三つの例文を中心にして典型的な多重授受表現に対する考えを述べさせていただこう。
2、一次元的な二重授受表現
⑩写真をとってあげてくれ
文⑩は前の九つの文と違って、はじめて授受動詞が二つ入っている。授受表現は二重になった。授受表現の本質から見れば、「恩義・利益」は単一ではなくなった。
「恩義・利益」が二つ分けられた以上、「恩義・利益」の移動はもはや二人の間だけではなくなった。つまり、三人が同時にいなければこの文はありえない文である。
ここで、話し手をA、聞き手をB、もう一人をCとして前に述べた「恩義・利益」の移動方向に対する分析のように説明すれば、「写真をとる」という「恩義・利益」の移動方向はB→C、「写真をとってあげる」すなわち「Cのために写真をとる」という願いに応じる「恩義・利益」の移動方向はB→A、となる。

3、一次元的ではない二重授受表現
3-1、上下関係(目上と目下)への発展
⑪叱ってやってください
 この文⑪はもっとも代表的な二重授受表現の例文だといってもよいだろう。この文をいう現実的な場合は一定してないかもしれないが、ここで一つの典型的な場合を中心として一次元的ではない二重授受表現に対する考えを述べてみよう。
 はじめてこの文を見たのは、日本のある漫画『めぞん一刻』の一冊目を読んだときで、その中に、女主人公のお姉さんのある科白は「わがままな子ですから、言うこと聞かなかったらしかってやってください。」である。
 文⑪をいう一つの典型的な場合は、話し手の子供の家庭教師に自分の子供に厳しく教えてもらいたいときである。文①から文⑩まで、授受動詞は「くれる」「もらう」「あげる」の三つしか出ていない。この文⑪には「くれる」「もらう」「あげる」以外の「やる」と「くださる」が入っているので、ベクトルみたいな授受表現は「恩義・利益」の移動方向はもはや一次元的に同等の人と人の間だけではなくなっている。
 家庭教師は話し手の子供にとって年長者(目上)で、話し手の子供は家庭教師にとって年少者(目下)だということで、上下授受関係を表す授受動詞「やる」が自然に出てきたのである。
3-2、内外関係(身内と他者)への発展
 文⑪が表している「恩義・利益」ももちろん二重である。最初は「家庭教師→話し手の子供」という方向に沿って移動する「叱る」という「恩義・利益」で、あとは「家庭教師→話し手」という方向に沿って移動する「叱ってやる」という「恩義・利益」が現れてきた。
問題はその第二部分の「恩義・利益」にある。この「恩義・利益」をもっとはっきり言えば、家庭教師は「話し手の子供のために子供を叱る」という話し手からの願いに応じることから出てきた「恩義・利益」である。しかし、なぜ文⑩と違って、文⑪は「くれる」を使わなく、「くださる」を使うのであろう。
『めぞん一刻』の女主人公は男主人公より二歳年上だということから見れば女主人公のお姉さんは言うまでもなく男主人公(家庭教師)より年長者に決まってるが、なぜ尊敬の意を表す授受動詞「くださる」を使うのであろうか?
ここでもう上下関係だけでは説明できないことである。『めぞん一刻』の中に、男主人公は女主人公とは血がつながっていないので、男主人公は女主人公のお姉さん一家にとって「よそ者」である。つまり、文⑪の家庭教師は話し手一家以外の「他者」である。古語にいわく:「遠来是客」(訪ねてきたよそ者はお客である。)昔からお客さんに対して言葉遣いに敬意を含まなければならない伝統的な習慣があるので、他者である家庭教師にお願いをするときに敬意を表さないと礼儀的には筋が通せないことである。
要するに、文⑪の第二部分の「恩義・利益」の移動する方向は同等的でもなく、上下的でもなく、内外的である。
3-3、授受補助動詞が表す方向の次元的な広がり
文⑪の分析から見れば、前の第四部分に述べた授受補助動詞が表す方向はもう話し手と聞き手(あるいは三人称)の間に限らない。
七つの授受補助動詞が表す方向は以下のようになった:
「くれる」と「もらう」:聞き手(あるいは三人称)→話し手、他者→身内
「あげる」:話し手→聞き手、身内→他者
「くださる」と「いただく」:聞き手(あるいは三人称)→話し手、他者→身内、目上→目下
「さしあげる」:話し手→聞き手、身内→他者、目下→目上
「やる」:話し手→聞き手(あるいは三人称)、身内→他者、目上→目下


4、三重授受表現
 4-1、二つの難点より
 ⑫写真を撮ってもらってやってください。
 本論文冒頭の「要旨」が述べたように、金田一春彦はかつて『日本語の特質』の中に、「写真をとってもらってやってくださいませんか?」という文についての分析を少し書いたが、その分析は日本語学習者には不十分だと思い、私にもそれに対していくつかの質疑を抱いている。
 実は私は別の問題を考えたとき、金田一春彦のこの文を思い出したが、記憶の偏差で思い出した文は文⑫になった。文⑫をめぐっていろいろ考えたあと、いくつかのことを悟った。考えてたとき、二つの難点が出てきてかなり苦労した。
 文⑫には授受動詞が三つ同時に入っている。しかも、この三つの授受動詞はみな授受補助動詞として使われている。「恩義・利益」の重なりはより一層複雑になったのである。文⑫のような三重授受表現が表している授受関係を理解するために、二つの難点を解かなければならない。この二つの難点は以下のようになっている:
 難点一:とりあえず関係を問わない前提で誰が誰に写真を撮ってもらいたいのか?
難点二:話し手、聞き手ともう一人、この三人はいったいどんな関係なのか?

4-2、難点一と数学
4-2-1、「集合」の重なりと「恩義・利益」の重なりの相似性
『体系が見えてくる数学読本Ⅰ』(武藤徹 1998 三省堂)によると、数学では、実数の集合は複素数の集合の一部で、虚数の集合も複素数の集合の一部である。このような集合をもとの集合の部分集合という。
部分集合はもとの集合と部分的に重なっているだけでなく、元の集合に含まれている。集合は集合に含まれていることを「⊂」という記号で表せる。集合はある性質を持っている:もし集合Aは集合Bに含まれていて集合Bは集合Cに含まれているとしたら、集合Aは必ず集合Cに含まれている。記号で表せば:もしA⊂B、B⊂Cとしたら、A⊂B⊂Cは成り立つ.また、数学の連続性から見れば、この式は無限に広がることができる:A⊂B⊂C⊂D⊂E⊂F⊂G⊂H………U⊂V⊂W⊂X…………。注意深く考えてみれば、この集合が持っている性質は授受表現の「恩義・利益」の重なり(移動方向のつながりと連続性)にも適応できる。
文⑫の難点一を解くには、数学的な式で説明すればわりと理解しやすいかもしれないと思う。また、関係を問わない前提での授受補助動詞が表す方向がわからなければならない。
4-2-2、難点一を解く
関係を問わないなら、文⑫に出てきている三つの授受補助動詞が表す方向は簡単になってきた:
もらう:聞き手(あるいは三人称)→話し手
やる:話し手→聞き手(あるいは三人称)
くださる:聞き手(あるいは三人称)→話し手

これから段階を分けて難点一を分析してみよう。
まず文⑫を数学括弧で分解してみる。
[{(写真を撮って)もらって}やって]ください
 すると、「恩義・利益」も分解されている:「写真を撮るという動作」、「写真を撮ってもらうという動作」、「写真をとってもらってやるという願い」、になる。集合を比喩として言えば最後の「写真をとってもらってやる」という願いに応じることから出てきた「恩義・利益」は一番大きな集合だということは一目瞭然である。そして、「くださる」は文⑫の中に命令形として使われているから、これは話し手から聞き手への願いだということが判断できる。それで、この一番大きな集合だといえる「恩義・利益」の移動方向は必ず「聞き手→話し手」に決まっていることは確かなことである。というわけで、文⑫のすべての「恩義・利益」の移動方向をうしろから、「くださる」→「やる」→「もらう」という順序で分析したほうが上策だといえるのであろう。
 次、話し手、聞き手、もう一人、この三人も記号で表す:話し手をAとし、聞き手をBとし、もう一人をCとする。
それから、簡易化した「授受補助動詞が表す方向」で数学的に「恩義・利益」の移動の可能性を組み合わせてみる:
a、 B→A  A→B  B→A
b、 B→A  A→B  C→A
c、 B→A  A→C  B→A
d、 B→A  A→C  C→A

すると、以上の四つの可能性が出てきたが、あくまでも「可能」というので、取り除くという方法で成り立たない「可能性」を一つ一つ除外してみよう。
前に述べたその集合の性質でabcdそれぞれその三つの式をつないでみよう:
a、「B→A」と「A→B」⇒「B→A→B」は成り立つ、「A→B」と「B→A」⇒「A→B→A」も成り立つので、「B→A→B→A」は成り立つ
b、「B→A」と「A→B」⇒「B→A→B」は成り立つ、「A→B」と「C→A」⇒×。後者はつなげないので、この三つの式がつなげない。
c、「B→A」と「A→C」⇒「B→A→C」は成り立つ、「A→C」と「B→A」⇒×。後者はつなげないので、この三つの式がつなげない。
d、「B→A」と「A→C」⇒「B→A→C」は成り立つ、「A→C」と「C→A」⇒「A→C→A」も成り立つので、「B→A→C→A」は成り立つ。
 
こう見ればまずbとc両方とも成り立たないことがわかった。残ったaとdは両方とも成り立つか、それともどちらか成り立たないかを論理的に分析しなければわからない。
aは式的には成り立つが、おかしなところがある:Cが入っていない。つまり、aという可能性の場合、文⑫という授受表現の授受関係は話し手と聞き手の間だけの関係になった。つまり一重授受関係になった。数学では方程式の根は虚数だという可能性はあるので、数学的な解き方で解いた授受関係には論理的には成り立たない可能性もある。というわけでdの場合だけは正解だといえる。
これで難点一は解いた:話し手は聞き手以外のもう一人に写真をとってもらいたいのである。つまり、写真を撮る人は話し手でも聞き手でもない。そして、「写真を撮ってもらう」という願いは直接に話し手からもう一人への願いではなく、聞き手を通過して間接にもう一人への願いである。
 しかし、この結論から見れば、「写真を撮ってもらってください」といえば結論の述べた関係を表すのに十分なのに、なぜわざと「やる」という授受動詞を入れたのか?また、三重授受表現といえば、関係者が四人はいるはずだが、なぜ三人しかいないのか?
 この二つの問題は難点一を解いただけでは答えられない。答えるには難点二にいかなければならない。

 4-3、三重授受表現の人間関係
 4-3-1、授受動詞「やる」への再考
 難点一には一つの前提がある。それは「関係を問わない」ということである。つまり、上下関係と内外関係は一切問わないことである。この前提があれば、授受表現の「重数」と「人数」の間に一つの法則が生じる:n重授受表現に関係者は(n+1)人いる。この前提がなければこの法則は成り立たない。
難点一の結論から出てきた二つの問題と上に述べた法則が言ったように、文⑫には関係者は四人いるはずである。それに、「やる」という授受動詞はまるで余計なもののようである。
 なぜ関係者は四人ではなくて三人なのかというと、「恩義・利益」の移動は次元的な変化が生じたからである。その変化が生じた根本的な原因は「やる」という特殊な授受動詞である。
 授受動詞は単に「同等」と「尊敬」の視点から分類すれば以下のようにセットすることができる:
   同等     あげる     もらう    くれる
  尊敬     さしあげる   いただく   くださる
つまり、「あげる」と「さしあげる」は同類、「もらう」と「いただく」は同類、「くれる」と「くださる」は同類である。こうみれば、「やる」はまったく余計なもののようで、役立たないような授受動詞である。
このとき、再び広辞苑をひくと、次のような説明がでてきた:
その一、(身分が同等以下の者に)与える。
その二、同等以下に者のために労を執り、恩恵を与える意を表す。

いうまでもなく、「その一」の場合、「やる」は本動詞としてのときの意味、「その二」の場合、「やる」は補助動詞としての意味である。
が、今のところの日本語では、普通、親しい友達の間でも「やる」を使うことはほとんどないらしい。こうみれば、相手は話し手より非常に身分が低いものである場合しか使わないようである。また、「花に水をやる」「殺してやる」「殴ってやる」などの例文から見ればこの身分差が普通とはいえない。一般的には「やる」が表す身分差以下のように限っていると思う:
生物と無生物(あるいは人間以外の生物)、自分と自分の子供、自分と自分の年少者の家族(弟とか妹とか)、自分と自分の妻、自分と自分の恋人(普通は男は女に使う。女のほうは年上な場合使わないかもしれない)、自分と自分がうらんでいる敵

4-3-2、金田一春彦の見方に質疑
『日本語の特質』から原文抜粋:
(前略)もらう場合も苦しむが、人にやる場合にも同じようにこだわります。つまり、相手の束縛を解く意味でそういう言い方をするのであります。これが日本人の考え方・言い方であります。たとえば、私が皆さんに写真屋を紹介しようとするときに、この写真屋なら皆さんに紹介しても悪くないだろうなと考える。こうした場合、「この写真屋がうまいんですが、一度かれの所へ行って写真をとってもらってやってくださいませんか。」こう言います。「とってもらって」というと皆さんがこの写真から恩を受けること、「やって」というと写真屋へ恩を施すこと、「くださいませんか」というと私が皆さんから恩を受けることを表すわけでありまして、恩の関係はこのように移動するのであります。

金田一春彦はこの中に、三つの恩の関係を簡単に述べたが、私はこの述べた三箇所に、一箇所目と二箇所目に疑問を抱いている。
実に言うと、その一箇所目に明らかな間違いがあると思う。「とってもらって」という部分は皆さんに恩を与えるのは絶対写真ではない。「恩義・利益」の移動は人と人との間であるから、「恩義・利益」をめぐる関係は人と人の関係である。人と無生物である「物」の関係ではない。写真は無生物なので、一般的には無生物は能動的に人に恩を与えるはずがない。それに、「もらう」という授受動詞は「撮る」という動詞の後ろに続いているので、前に述べたことからみれば、この部分の「恩義・利益」は「撮る」という動作から出てきたのである。常識では写真という物は「撮る」という動作を発することができない、発するわけもない。言い換えれば、写真はカメラを操作して自分を造ることができない。ということで、その文の皆さんは写真を撮る人すなわち写真屋から恩を受けるのである。
二箇所目は、方向からみれば確かに写真屋へ恩を施すのであるが、いったいだれが写真屋に恩を与えるのか、また写真屋は「私」とはいったいどんな関係なのか金田一春彦はこの中に述べていない。難点一の結論はもう「いったいだれが写真屋に恩を与えるのか」という問題にすべて答えた:「写真を撮ってもらう」という願いは直接に話し手からもう一人への願いではなく、聞き手を通過して間接にもう一人への願いである。つまり、「私」と皆さん両方とも写真屋に恩を与える。「私」は間接に恩を与え、皆さんは直接に恩を与えるのである。しかし、写真屋と「私」、「私」と皆さん、写真屋と皆さん、いったいどんな関係なのかまだわからない。問題はここだ。この特殊な三重授受関係の最大な問題はこの三つの関係だといえる。
写真屋は「私」の先輩(あるいは、年長者、目上の人)であれば「やる」は絶対使ってはいけない、と思う。4-3-1の中に述べたように、「やる」は同等以下の者に物あるいは恩恵を与える意を表すから、同等以上の人に「やる」を使えば世間的には非常に失礼なことになるのである。つまり、「やる」という授受動詞が文中に現れると特定な授受関係もそれとともに現れる。

4-3-3、文⑫が表すあり得る授受関係
三重授受表現の「恩義・利益」の移動方向はいうまでもなく一次元的ではない。文⑫の話し手A、聞き手B、もう一人Cの間の授受関係は上下内外各方面から分析しなければわからない。
まず上下関係を見てみよう。前に述べたことから明らかにBは直接にCに「恩義・利益」を与える。そして、この「B→C」という「恩義・利益」の移動方向を表す授受動詞は「やる」である。この二点をあわせると、Cにとって、Bは必ず「目上」である。こうみれば、金田一春彦が言ったその文の場合なら、もし写真屋は皆さんの同等以上の者であれば、その文は成り立たない。少なくとも礼儀的には正しくないと思う。
Aは間接にCに「恩義・利益」を与えるので、今Aは必ずCの同等以上の人といえばまだ早い。なぜかというと、BとAの関係はまだわからないからである。
文⑫の最後の授受動詞は「くださる」であることからみればBはAの「目上」のようであるが、「くださる」は命令形として使われているから、絶対そうとはいえない。
ここまできたらもう上下関係だけでは説明できない。なので、内外関係からも分析してみよう。
「くださる」を使われていることからみればAとBの関係は二つの可能性がある:その一、BはAの「目上」である;その二、AにとってBは身内の人じゃない。文の構造からみればAは一人称、Bは二人称、Cは三人称なので、AとBは身内、CはこのAとBという団体にとって他者である。文⑫の話し手はAだから「やる」という授受動詞を使ってる人はAで、4-3-1の結論からみれば、AとCの関係にはいくつかの可能性がある:Cは無生物(あるいは人間以外の生物)、AとCは家族同士、AとCは恋人、AとCは敵同士。まず「Cは無生物」という可能性が成り立たないことは言うまでもない(ただし、無生物は知能ロボットの場合を除き、動物は訓練された見世物の動物の場合を除く)。それは無生物と人間以外の生物は写真をとることができないからである。AとCは敵同士の可能性も論理的には成り立たない。残った可能性は成り立つと思う。
金田一春彦が言ったその文にもどれば、「私」と写真屋の間に特殊な関係を持っているに違いない。しかし、金田一春彦はその関係の話には一切触れなかった。
ここまできて文⑫の内外関係もだんだん明らかになってきた。身内といえば絶対的なものではなく、相対的なものである。距離の遠近からみればAとBは身内、Cは他者、血縁あるいは親しさからみればAとCは身内、Bは他者、ということである。
ここで難点一の結論から出てきた問題は解いた:なぜ使う必要がない「やる」を使われているかというと、AとCの間には特定な身分差から出てきた特殊な「恩義・利益」を表すために「やる」が加わった。
私の考えでは、もしAとCは上に述べた可能性のある特殊な関係を持っていないなら、たとえAにとってCはどんなに同等以下であっても、どんなに赤の他人であっても、たとえBにとってCはどんなに身分低くても、AにとってBはどんなに身内同士であってもどんなに目上であっても、「やる」という授受動詞は絶対使わない。それに、AとCは本当に親子関係(あるいは夫婦関係)だとしても、Bはその関係を知らないかぎり、「やる」も絶対使わない、と思う。




六、終わりに
1、文⑫に関する戸惑いと間違い
文⑫を考えてたとき、私だけでなく、多くの日本語学習者、日本人ですら戸惑いが見られ、間違いが出てきた。私はいろいろ考え、その原因を追窮しているうちに、いくつかのことが明らかになってきた。それは単に文⑫の複雑さだけでなく、違う言語の文法構造にもかかわる。
1-1、人称代名詞の省略がもたらす論理の混乱
使役助動詞混じりの授受表現の中に述べたように、日本語の特徴の一つは「よく人称代名詞が省略される」。金田一春彦『日本語特質』にもこういっている:日本語は論理的でないことばが多いと言われます。「何もありませんが召し上がってください。」などと、何もないものを食べることはできませんが、平気で使っております。
厳密に言えば人称代名詞は省略するわけにはいかない。省略すれば必ず論理的な混乱をもたらす。中国語でも英語でも、文の中には人にかかわる場合必ず人称代名詞が入っている。文⑫を中国語に訳せば「叫他给你照张相吧」あるいは「叫他给我们照张相吧」になる。極簡単な文である。授受関係は日本語のようにすべての関係が表し尽くせないが、少なくとも誰が誰に誰の写真を撮ってもらうかはきちんと表していて一目瞭然である。中国人なら誰でもすぐわかって間違いをしない。日本語の場合になると、日本人自身でもわからなくなる。なぜかというと、それは、三重授受表現の場合になれば授受関係が非常に複雑になり、人称代名詞も入っていないため、論理上混乱が必ず生じやすいからである。
1-2、「て」の文法機能による日本人と日本語学習者たちの間違った理解
文⑫に関してはある日本人と日本語学習者はこういう間違いをした:この文は話し手が聞き手にもう一人のために写真を撮ってもらうという意味です。
つまり、この間違った考えの中に、写真を撮る人は聞き手であった。要するに、聞き手ともう一人の位置を間違えたのである。
なぜ皆こういう間違いをするのかを考えたあと、接続助詞「て」の二つの違う文法機能を混ぜた、という原因がわかった。
日中辞典によると、接続助詞「て」にはいろいろな文法機能があるが、その中に、この二つの文法機能がある:(1)動作・作用が続いて起こることを表す。(2)補助動詞を導く。
明らかに、文⑫の中の三つの接続助詞「て」は皆「補助動詞を導く」という文法機能を果たしている。しかし、日本人と日本語学習者はどの「て」の文法機能を間違えたのか?
ここで、この二つの文法機能の中に一つ隠されていることがわかればすべてが解決できる。そのことは、動作・作用が続いて起こることを表す「て」が入っている文はその「て」の右に読点で途中で切ることができる(切れても意味が変わらない)、補助動詞を導く「て」が入っている文は読点で途中で切ることができない(切れたら補助動詞を導く「て」ではなくなる)、ということである。。
文⑫の二つ目の「て」の右に読点をつけて文を切ってみよう:
写真をとってもらって、やってください。
こうなったら二つ目の「て」は動作・作用が続いて起こることを表す文法機能になって、文⑫の意味は「写真を撮ってもらって、その撮った写真を(だれかに)やってください」という意味になった。その「やる」という授受動詞も本動詞に変わったのである。
補助動詞は必ず「て」で導くので「て」が失われると補助動詞はもう補助動詞ではない。もう一つのことも推論できる:文あるいは文節の始めにある動詞は補助動詞ではない。読点で文⑫を切れば一つの文に二つの文節が分けられて、「やる」は文節の始めにあるようになったので、補助動詞ではなくなった。要するに、文⑫のような補助動詞が入っている文は読点で切ることができない。すなわち不可分である。

2、n重授受表現
集合の重なりと同じように、「恩義・利益」の重なりも無限に広がることができる。授受表現の重数も無限に多くなる可能性がある。上に述べた内容から数学の演繹法で推論すれば、n重授受表現には「恩義・利益」がn個ある。周知のように、四次元空間はあくまでも想像的な段階でまだ立証されていない。同じように「恩義・利益」の移動方向も三次元以上に次元的な変化が生じないと考えられる。しかし、授受表現の重数が多ければ多いほど「恩義・利益」の移動とその授受表現が表す人間関係も複雑になる。人間関係が複雑になればなるほどその授受表現が出る現実の場合に制限が多くなる。制限が多ければ多いほどその授受表現をとる確率が少なくなる。重数は無限大になるにつれてその授受表現が現れる確率は限りなくゼロに近づくと結論を下してもよいのであろう。
私は今まで四重授受表現の文を見たことがない。現実では三重以上の授受表現はほとんど出てこないので、今のところこれ以上追窮する必要がないと思う。






 1、「くれる」の特性に関して
 本論文を書いたとき、「くれる」はほかの六つの授受動詞にない特性を持っていることを発見した。ほかの授受動詞が表す「恩義・利益」の移動は一方的で、「与える」か「受け取る」かどちらかの一つしか表さない。しかし、「くれる」だけは違うもので、両方とも表す。広辞苑によると、「くれる」は、(1)(自分が相手に)物をあたえる、(2)(相手が自分に)物をあたえる、という二つの意味を持っている。また、「くれる」は、(1)自分のために他人がその動作をし、それによって恩恵・利益を受ける意を表す、(2)他人に対して自分がその動作をしてやる夷を表す、も書いてある。
 実は私はこういう文を考えたことがある:「成敗してくれる」。そのとき、私はこういう疑問を抱いている:「くれる」は「恩義・利益」を受け取るという意味を表しているが、「くれる」を使うと、話者が相手に話者自分を殺してほしいと言いたいのではないだろうか。
 「くれる」のこの特性がわかった今頃はこの疑問が完全に晴れたが、なぜ「くれる」だけはこんな特性を持っているのかについても考えた。考えた結果こういう推測が出てきた:古代の戦場の上、両国の大将は戦い合うとき、敵として見下げるはずの対象は性格あるいは腕から見れば、好意・尊敬・親密感を持っている。敬意を表すために当然「……してやる」という表現はしないだろう。敵として見下げるために「……して差し上げる」という尊敬すぎの表現もしない。「……してあげる」だと、ごく普通な感じしかがしない。というわけで、自分に対するのと同じぐらいの好意・親密感を含めて「成敗してくれる」という表現にしなければならない、と思う。
あくまでも推測だが、実証するには、日本の古代のことも山ほど調べなければならない。研究するためになる文献もかなり少ないので考証するすべがない。しばらくは放っておくことにした。
 2、「恩義・利益」の移動する起点と終点に関して
 本論に述べたように、授受動詞が表す「恩義・利益」の移動する起点と終点は決まっていない。少なくとも起点と終点のどちらかが決まっていない。なぜ決まっていないかというと、それは授受動詞の活用形によって決まるものだから。そして、文脈または文の形も動詞の活用形によって変わるものなので、授受動詞の活用形が決まらないと「恩義・利益」の移動する起点と終点は決まらない。また、疑問文であれ平叙文であれ授受動詞は同じ形である可能性もあり、数種の活用形も同じである可能性もあるので、「恩義・利益」の移動する起点と終点を決めようとしても決めきれない。
 3、プラス「恩義・利益」とマイナス「恩義・利益」に関して
 実際、広辞苑を引くとき、「やる」にはもう一つの意味を持っている:相手に不利益を与える意を表す。例文は「思い知らせてやる」とか「家出してやる」とか「自殺してやる」とか。一見すれば授受表現ではないかと思われるかもしれないが、広義に解すればこれも授受表現に違いない。相手に不利益を与えるということは、ある意味いえば相手から利益をもらうということだといえるのだろう。数学にはマイナスとマイナスをかけるとプラスになるという定理があるように、「恩義・利益」にもマイナス「恩義・利益」とプラス「恩義・利益」が存在していると考えられる。





参考文献
長谷川松治 訳(1967)『菊と刀』  (The Chrysanthemum and the Sword-Patterns of Japanese Culture. Boston,1946,Ruth Benedict) 1994 社会思想社

夏目漱石 『坊ちゃん』 平成十五年八月十五日 新潮社

武藤徹 『体系が見えてくる数学読本Ⅰ(代数学・幾何学)』 1998 三省堂

金田一春彦 「日本語の特質」 『日语』(大学日语专业高年级教材第五册第八課) 上海外国语大学日语系 陈生保 胡国伟 陈华浩 编 2000 上海外语教育出版社

『広辞苑』(電子辞書より) 第五版 岩波書店

『日中辞典』(電子辞書より) 小学館

      
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瀬を早み 岩にせかるる滝川の わかれても末に会はむとぞ思ふ……

风流云散,一别如雨。


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